昭和56年8月24日 朝のご理解 入力者松本正宏
御理解第九十六節 「世の人があれこれと神のことを口端にかけるのも、神のひれいじゃ。人の口には戸が閉てられぬ。先を知ってはおらぬぞ。いかに世の人が顔にかかるようなことを言うても、腹を立てな。神が顔を洗うてやる。」
合楽で、実験実証という言葉が沢山使われます。何を実験して何を実証していくかというと教祖様の御教えを守るという事。必ずそこには実証が生まれるという事。まあいうならば教祖様が教えておられる御教えを、身を心を持って行じ頂いて、教祖様の御教えをその通りだと教祖様は一言半言でも嘘は仰っていないのだと、それを私共信奉者が身を持って証を立てていくという事。それがおかげを受けることでありお徳を受けることであり、神様を現す事であり、金光大神のお言葉を実証していくという事になるのです。私は今日のみ教えほど合楽にピッタリした御教えはないと思うですね。今日まで合楽は段々おかぐげを頂いて参りました。今でも色んな評判が良くないですけれども、ね、それこそ人の口には戸は立てられんという事は本当に思います。もう根も葉もない事を言い立てるとかそれが伝わっていく。ある教会の先生が参ってみえて、今熱心に合楽の傾倒者ですけれども、親教会に参りましたら合楽の話が出ました。もうそれは、それはもう棒に箸にもかからんような悪口とそれでもあれだけの人が助かってあり、あれだけの御ひれいが輝いておるじゃないかというならば十人の先生が半分は悪くいい、半分はもうそれでも、前の御ひれいが物を言うじゃないかと言われるので、とにかくまあ、一見は百聞にしからずというところで遠方のところをわざわざここにおいでられました。
そして、ここで信心を段々合楽の信心が分かられて、今日では合楽理念を元にして布教をしおかげを頂いておられる教会があります。ね。あまりその悪口が言うなら確かに戸は立てられんという悪口を聞いてみえて、そして実際合楽の信心を頂いてみたら、成る程人が助かるはずだと、なるほど、合楽で言われておる合楽理念が本当に金光教の信心の神髄を言われるのだという風に分かってこられる。それを例えばならここ三十年間の間段々段々おかげを頂いて参りまして、今日のごひれい。だからその段々段々悪口も大きくなっていく。大きくなっていけば行くほどに、合楽教会は大きくなっていく。そして悪口を言うておった人も、段々分かるようになり、合楽に傾倒していくことにすらなってくる。昨日もある山口県の御信者方が十七名ここへ、参拝と言われたけれども、まあそういう意味で身にこられたのではないかと思う。この前の、御大祭の日でした。御大祭という事を知らんなりに長崎のある大きな教会の御信者方が、とうとう私は前夜祭でお会いが出来なかったのですけれども、六名か七名か泊まりがけで参拝して見えられた。そして大祭を頂いて帰られたという事ですけれども、もう確かにね、そういう意味で今日の御教えを見事に実証しておるわけです。
ね。そうでしょう。世の人が顔に関わるような悪口を言う。けれどもそれは神のひれいじゃと仰る。もう合楽教会ちゃ、どがも、合楽の大坪ちはさもろくないちうのは一部に言われて参りましたけれどもね、それはそのまま神様のひれい。だから誰が悪口を言うたか、私がと言うて、私が言い訳をしたり、それに対抗していったりしておったら今日の合楽は生まれてこなかったと思う。それを神のひれいとして、頂いて、世の人がね、それこそ顔に関わるようなことをいうてもそれに腹を立てるなと。神が顔を立ててやると仰る。今こそ合楽は神様が顔を立てておってくださる時ではないか。ね。というのと同時に今日私が皆に分かって頂きたいのは教祖の神様の御教えというのはもう本当に一言片言とても嘘は無いという事。だからちょっと難しいそんな事がというよような事であってもです、それをいよいよありがたしと頂いて行く以外にないという事になる。それをなら、つまびらかに合楽理念を持って説くのですから、合楽理念のいよいよ実験実証という事はそのまま教祖様の仰られる事を実験実証する事になるのでしょう。なら神様が教えて下さるとおりにはいかん。という事は大変難しい事至難な事であるならばなんですけれども、いつも申しますように、頂こう、行じようと言う気に、その気になれば誰でも行じられるのが教祖様の御教えなのです。一つのことを稽古しようと、本気で稽古しようと、ね。それは一つのことを体得していくというのですから、ね、節はありましょう。また、教祖様はそこんところをお試しとも仰っておられる。ね。信心に身が行ってくるとお試しがありますぞと、晩年にはこの事ばかりを仰ったという事ですね。
信心に身が入ってくると神様のお試しがありますぞと、その御試しを乗り越え乗り越えしていく度に信心は大きくなってくる。合楽に対する色んな悪口といったようなものが、いよいよ大きくなれば、この人から、だけは悪口を言うてもらいたくないと思うような場合であってもそうですよね。今、一番合楽が問題になっておるのは合楽は教団に弓を引くとこういわれる。もう心外も心外本当にですけれどもね、そういういわばなら、私は合楽教会の発展はそのまま教団の発展だと思うておる。合楽のごひれいはそのまま教団のごひれいであると私は信じておる。のにも関わらず、合楽は本部に対して弓を引くという風なそれも大変露骨な表現で言われておる。ね。けれどもそれも神様のひれいなのだと。教祖金光大神の教えて下さりよる事は嘘がないと、私共がこれをいよいよ実証していくという事。ね。この御教えほど、私はピッタリくる御教えは無いと思います。まあいうならば、憎まれ子世に憚るというような事が言われますけれども、合楽の場合は何かそんな感じがします。いうならば悪口が大きければそれが、まあいうならば芯に迫ったものであればあるほどにです、ねこちらがどっこいこれをひれいとしてまたはそれを節として、受けて行くという。ね。そこに合楽の限りない進展発展という事になってくるのです。
先だって臼杵の毎日まあ電話が掛かって、色々御祈念中に神様からお知らせを頂くと言われるのですが、旗を織りますね、例えば絣なら絣をこう織り上げていく。そこの織り上げておるところに一筋の光がばっとさしてそこに柄が浮きでておるところを頂かれたとこういう。ね。だから信心させて頂いておるという事はいうなら中途半端なものではですね、それこそ、帯には短し、襷には長しというような結果になります。昨日から、昨日の月次祭でも申しておりますように、これは昨日熊谷さんが頂いておるという人道地に落ちた。いうならば人道を豚が一杯になって、人間が通られないというようなお知らせを頂かれたというのです。豚というのは、汚いという意味でしょうし、同時に、我情我欲一杯のというでしょう。我情我欲一杯の人が人道を通っておるから、本当はこれは人の道なのだけれども、人間の面はしておるけれども心は、獣心というか汚いものが一杯通っておるので、信心させて頂くものが通れない。そこで、信心させて頂くものが一段違った、人の道ではなくて神の道を歩けるという事。いうなら次元の違った世界に住めるとこういう。私は悪口を言われて、それがひれいとして、お礼が言えれる心は、次元が違わないと頂けないと思うです。同じ次元におっては、やっぱ言われれば腹がたつ。
腹が立ったらおかげは受けられぬ。ね。言い訳しよったらおかげは受けられぬ。それを神のひれいとして、受けられるという事。その事次元が違わないと受けられんのです。ね。いわゆるその、高橋さんといいますがね、お知らせを頂かれてその電話が毎朝かかってくるのです。素晴らしいご理解なのです。今のその機織りでもそうです。中途半端で終わればそれこそ、帯びにもならなければ襷にもならない。せっかくの、なら、柄なら柄がこう織り上げられていっておる時に少しどうか間違うたら、見事な柄が崩れてしまう。これを一旦綺麗に織り上げて初めて縫い上げていわば腕が通せる、手が通せる着物になるように、ね、中途半端なことでは出来ない。信心はそこのところを大切にしながらですいよいよ教祖金光大神の教えをです私共が実証していくという事。それが、いうならば私共もおかげを頂いて行くという事であり、お徳を受けて行くという事である。そして、教祖の御教えのどの一つでも、誇張でもなからなければ嘘でもない。私を見て下さい。私はそれを実験したりこういう実証を持っております、体験を持っておりますという体験を人にも伝えて行くことが出来るのです。私はこの九十、何節ですかね、九十六節ですかね、この九十六節ほど私は合楽にここ三十年間の合楽の歩みというものを思うて見るときにです、本当にこんなにぴったりしておる御教えはない。確かに教祖様が顔を洗うて下さったり顔を立ててくださったりしておるのが、今日の合楽のごひれいであると思いますね。
どうぞ